生と死と

 立ち往生している悲しい人。成仏した辛い人。仏に成って別れる人。死を寂しく迎える人。みんな生きていくことを基準として生を悲しい終着駅のように考えているようだ。
 しかし、仏教は生まれ生きることも大事だが、その人の死をもって法要を勤めているようだ。親鸞や仏教の思想では死を持って完全な仏に成る事だ。しがない人生の完結なら、そこから仏に成って更なる慈悲行を遂行する門出になっている。
 生を完璧に充足すると、死さえも仏に成る門出となるようだ。その死が究極の仏への完成する生になっていないと死を生からの別れと考えるようになる。仏の道を知らない生ならば、なおさら死ほど怖いものはないはずだ。
 死が来ても生の完成になっており、さらなる人間の高みである真実一如の自由自在のナンマンダブツになるときと思えば、この肉体にも少しは感謝の言葉も出てくるのだろう。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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