変化していくもの

 救われるはずのないものが救われないままに救われることを仏教では不思議と言う。
清浄な世界に行くこと、つまり、この世で仏に成ることが出来るのは、今この身が清浄でなければならない。しかし、どこにもその姿がないのに、救われる姿がどこにもないし、善人や心が100%清浄ならば、そのまま清らかな浄土へ往けると誰でもが思う。 しかし、五濁にまみれた凡夫が、どこにも救われるものを持っていないものが、無明の闇が晴れただけで、煩悩や本能が残ったままで救われるはずはないと誰でもが思う。
 本願が矛盾しているのは、矛盾して生きていることを何とも思わない凡夫を目覚めしめんとの本願の苦渋の決断なのであるから、本願は自然なのに人間の方が不自然に生きているところに原因があるからなのである。この矛盾したままで、浄土の徳をこの身に現在頂けることは、決して特殊で特別な救済ではなかったのではないのかと思うのです。
 歴史的な変遷を経て、過剰に信心が美徳化されて凡夫たちがいつの間にか聖人扱いされたようなところから、仏と言うものの考えもそれに応じて、特殊化されてきたのではなかろうか。
仏像をはじめ仏教美術には傾聴に値するものが幾多もあるが、こと信仰心や、信心といった目に見えない命のはたらきを伝承する場合に、どうしても神聖化や高邁さ、歓喜性や罪悪性さえも美徳化されて今日に至ったのではないのだろうか。
 ブッタも一人の凡夫であり、妙好人であると言った人がいたが、親鸞も親友と言う言葉で、念仏の同行とみていたような節があるので、やはり仏陀を過剰に尊崇するあまり、その真理の単純性、信心の普遍性が、いつの間にか歴史の垢を浴びてしまい、本来の純粋無垢な如来の本願に化粧をしてしまいがちになって来たのではないのかと思うのです。
 教学的なことは不案内ですが、仏と言う一つの心の世界に二つの心を持った人間が帰ってゆくのには、どうしても現世で一度だけ、心が一つになる経験をしておかなければならなかったのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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