終わり良ければすべてよし

二人の終わりがよい
仕事の終わりがよい
ゲームの終わりがよい
人生の終わりがよい

様々な良い終わりがある
世間での終わりと仏法の終わり
の意味は大いに違う
世間は二つの間がうまく行ったら良しになるが
仏法は個人の余資が全てに綱飼っているから
個人的なものでも醜聞なのだと思うのです

ブッダが35歳で覚ったら個人的には
もうそこでよかったのだろうし
親鸞も29歳で本願に帰したから個人的にはもうそこですべて良しだったのだろう
何才でも仏法の真理の息吹に直接 
出会ったらすべて良しになるんだろうと思う。

今この人生が終わっていいとしたら念仏で終われたら
すべて良しと変換されていくものに出会っていたという事だろう

常に今終わりよければすべて良しと言うものに出会っておくことが
大事なんだと個人的に思います

なんまんだぶつ
なんまんだ

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