真理を頂く

 真理に問うて自己を学ぶことが学問だとすれば、真理を個人が発見したとするならば個人の真理となり、真理を自我意識の中に取り込まれ得るものだとするようになれば、やがてその人の学問も真理の小さな一部となり、やがてその真理も狭隘な死せる真理と変わり果て干乾びてしまうのである。
 もともと真理とは生きて全体に働くダイナミックなものであり、古代から真理に生きた賢人たちは常にその前に頭を垂れ真理と共に生きて来たのである。だから、捕まえた真理にその視点がないといわゆる学問に振り回されて真理から食い殺されるようになる。
 だから学問には真理を求めることはあっても、それを政治や会派や仲間内の物には最初からはいらない性質のものなのである。このように述べる人は学問の根本から逸脱していることを自ら知るべき千載一遇のチャンスに遭遇していると認識すべきだと思うのです。
これが、世にいう学問が人を馬鹿にして、ついに世間通途の常識的なことさえ忘れてしまう人間を生み出していくもとになるらしいのである。
 病が高じれば自身が親であることを忘れ、社会人であることを忘れ、日本人であることさえ忘れ。ついには人間であることさえ忘れての無道徳、傍若無人に至るのである。次第に宗教的な意味での人間としての規範さえも喪失してゆくようになる。
 学問をすれば馬鹿になるとはこのことだが、学問に真摯な人は常に常識的な人であることは論を待たない。このことは平安の御代でも令和の御代でも同じ事なのではないのかと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ

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