本来が輝くとき

 18願には人間の根本的な判断をする理性の彷徨と根本意識を変える助かる本能と助からぬ煩悩がある。この本能を取ってしまう、あるいは消滅させてしまえば完全な佛意識しか人間には残らないが、これはきっと清浄意識と深い関係があり、これは仏に許された用きで、それ自体に罪はないというのだからであろう。
 だから煩悩意識の根本にアミダ意識または清浄意欲が理性自我意識の底へ入り込み、本来の根底的存在の意識水準として入れ替わった途端に真実世界への歩みが本能もろとも煩悩の彷徨も浄土へと歩み始めるのであろう。
 法蔵自体の願意識の中にもこの点を十分考慮した考えがあっての救済であろうと思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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