蓮は汚い花にしか見えない

 卑湿の汚泥の中から蓮の花が咲く譬えがある。
 仏という花から見れば我々は泥以外の何物でもない。我々はそこしか知らないから、泥が美しいとしか見られないし、信じられないのである。
 そこからしか真実を観ようとしないのであるし、見るしかない意識の限界がある。
 だから、花が咲いて、仏の視点から、わが身の泥だらけの姿が初めて見えてくるのであって、それ以前の私が勝手に知っていたとか思っていた観念的な罪悪深重とか泥凡夫、悪人正機などという、こちらからは絶対に成り立たない視点に初めて気が付かされるのである。
 だから、本当に花が咲くときは、綺麗だけど、汚いという矛盾しながら仏と凡夫という矛盾する対立概念がわが身に一つとなって成立するのである。それがアミダの蓮の花が言葉になった南無阿弥陀仏なのだ

なんまんだぶつ
なんまんだ

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