磁石

 昔から、不思議なことに仏や神になろうとした人は、その罰を受けて地獄や煉獄などに落ちている。どうも人間は神や仏に近づけば近づくほど、遠ざかるほかない力が双方からか、一方からか知らないが働いているようだ。まるで、磁石のプラスとプラスのように強烈に反発して、決して一緒にはなれないようだ。
 どうしても、くっつこうとするなら、どちらかがマイナスになってしまえばいいのだ。神仏は絶対的なプラスなのだとすれば、我々の絶対プラスだと思っているプラスがいつまでも通じないのなら、神仏に我々の自分の力では到底、神仏になるという意識を持ちながら、なれないという我々の背中に抱えている全歴史的な罪業のマイナスをいやいやみせて、くっつくしかないのだ。
 神仏が我々を背中から抱きしめて離さないのだ。しっかり永遠に抱きしめられなければ、いやいや神仏のプラスにマイナスを引っ張られていくしか我々が神仏になる道は無いのだ。
生きているうちに一端後ろから抱きしめられれば、仏とはずっとくっついているから、外見は、救われているようで、すくわれていないようにしかみえないが、内面はもう離れない関係になって、離れようとしても神仏が異常な力で強力にくっついて離さないので、この世では二度と離れられなくなるのだ。
 そして、自分ではそれが自分のプラスだと思っていたことも、仏から見ればマイナスにしか過ぎないことを今、身をもって知らされるのである。
 根本から一回救われたらすべてが終わりではなく、この煩悩の身がある限り、ほとけ様は恒に現在進行形で救っていることを我々に自覚させ続けているのだ。
 そして、この身が終わる時には、残念だが、生きているときはどうしても逃れられない神仏に反する生き方をすてさせられて、嫌いなはずの神仏と一緒になって、神仏の見えない磁石のエネルギーの一部となる運命なのだ。
世間ではこれを救い、と言ったりするが、本来持っている自分の心に目覚めた人間になって自然に生きるという事だ。そこには私の求める自由も幸福もすべてがあるという事だ。
 生きている時にはこのアミダ仏の救済エネルギーがはたらき続けているのだ。それを親鸞は往相還相の二回向と言って、念仏する者は自らつくりだすエゴイズムの罪に苦しむときに、そのアミダエネルギーがはたらき出し、吸収し、元の静かな念仏者に戻してくれる働きをするのだ。それが、何度でも、何度でも生きているうちに繰り返される救いてあるから正像末和讃(48)「如来二種の回向の恩徳まことに有難し」と言っている。
なんまんだぶつ
なんまんだ

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