宗教的な人間になる。

 いつから人間が宗教的な人間になるのかは知らないが、言葉を話し忘れる頃までだとすれば三歳でも救いの対象に入らなければ真の仏の救いや悟りを説く仏教にはならないのだろう。

 すでに、あみだの本願念仏は老少善悪の人間を対象としているから大丈夫と歎異抄。5歳未満の入場お断りではないのだ。

 法を犯し酒やたばこを吸うなんて何でもない。厳しい修業はすでに永遠の昔に済ませたあみだ様が、そこから編み出した特別な方法は、これ一つで必ず全員を必ず救うという約束を信じる念仏一つでいいという。

 もっといえば、信ずる私が無信でも信じる主体があみだ様にあるから大丈夫とまで言っている。

 母親と今別れ行く三歳の子供でも、ベッドで青息吐息の老人でも、この金言ならば腹の底まで届いて、心から宗教的な人間になった自信と実績があったからの念仏ただ一つ。

 苦悩に喘いでいる我らにこそ、その大いなる功徳を享受宣伝してほしいとの願いがあるからなのでしょう。 

なんまんだ。

name
email
url
comment

NEW ENTRIES
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
身も心も生まれ変わらなきゃあ意味がない。(11.13)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS