生きている時に気が付けば少しは楽に生きられる

正しい信心に目覚めた僧侶に葬儀をしてもらったら、亡き人は極楽に行くのか。その逆は地獄行きになるのでしょうか。  
 お経はお釈迦様の言葉を纏めたものと、後世の諸師方や親鸞様の言葉も使われています。その言葉を信心のいかんにかかわらず、そのもの自体が理解されていれば有難いものなのです。 
 しかし、高徳と言われる宗教的な確信を持っておられる。いわゆる見識とか心境とか信心が深いと内外に認められ、それ相応の位についている人にあげてもらうと、それなりにご利益があるようにも思えます。亡くなったらみんな浄土往生なのかもしれませんが、生きている時の宗教心への覚醒と言う課題がある限りは、無自覚で生き、無自覚で死んで行っても、それなりの結果にはなるのでしょうが、やはり、これも個人の宗教的な課題として、とらえていくしかないものなのかもしれません。仏縁が熟すかどうかというところにとどまっていくものなのなのかもしれません。気がついた人はそうだが、そうでないときはそうでないままで。と言う仏縁次第、個人の要求次第の課題に留まる問題なのかもしれません。
 きっと、無くなったら全員、それなりの所に行くのでしょう。しかし、それを、生きている時に自覚するのが宗教の大事な課題であるのでしょう。浄土の一分を信心信仰として自覚して生きていくことが大事なのでしょう。それでも亡き人は浄土往生ができるようになるのでしょうか。
 こんなことを考えていたら、やはり、亡くなった人が生前に信心と言う普遍的な宗教心に目覚められて、その集大成として、人生の中心は私にとってそれが一番であったという意思表示として、それを大切にしている人にあげて頂くことで一本の宗教心がつながって行くのではないのではないのかと思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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