「詩が出てくる言葉の源は言葉のないところ」谷川俊太郎。

 「詩が出てくる言葉の源は言葉のないところ」谷川俊太郎。

 言葉になる前には直接そのものの心との出会いがある。

 驚いたときや恐怖に出会ったときやきれいな花を見た時、瞬間に言葉は出ない。美しさに感動して言葉になる前に心を通してから出てくるからだ。

 その心に多くの感動した経験があれば、出てくる言葉も詩人のような言葉であり、素直な子供の言葉になったりするものだ。

 平凡な日常ではなかなか直接に経験したことを改めて感動などする暇はないが、特別な時にはその人なりの言葉が出てくるものだ。

 南無阿弥陀仏のお念仏もあみだ様の純粋感情ともいうべき知情意のはたらきから想像されたものなのだろう。

 あみだの本願には人間の要素はいらないのだが、人間という分別意識を持っていないと生きることが出来ない人間の意識に合わせて生まれたものが、人と真実世界のはたらきの共同意識として、あみだからかかる言葉による救済として出来上がったものが言葉による、言葉そのものに籠っている心に触れて、自身のアミダとしての意識に目覚めさす手段としての言語の船による救済は多くの人間を救済するのには一番直截で、自意識を通せば一番困難な救済になってしまうのかもしれないが、手段を失って意識の手も足も出ない時には、ごく最短な救済方法、救いの最短の距離となることは優れた方法なのだ。

 人間の方からこんな勘弁な手段が考えられたのか、仏の方が五劫の思案というのかもしれないが、純粋意識が人間にはないのだが、それを持っていなければ永遠に渡れない橋がアミダとの間にかかっているだけになるから、真理が人間に妥協して、いやいや作った人間専用の橋というほかないのである。

 無心の橋ともいうべきものが全ての人間の前に透明な存在として架っているのかもしれない。

 その見えない船や橋に足をかけることは、有我の人間にとっては無限の谷底に落ちる覚悟で渡らなければならないので、人間の意識からは出てこない仏の意識に委ねなければならない。その真実の勇気の心の鍵を手に入れるのが人間にかけられた仏の願いなのだ。

 不可称不可思議不可説の永遠無限の世界を有限の人間がアミダの真実一如の永遠の一瞬の救済によってそれが人間にも認識できるようになるのであるから、人間の心にも永遠と出会える意識世界が温存されていたというほかないのである。それを仏性とか信心とか悟りの心というのだ。

 最短にして最大限の宇宙の真理がそこにあり、宇宙の真実の道理が全包含され、人間といつでも出会いたいという願いをもっているという事なのだ。

 詩も宗教にもその言葉の存在の故郷ともいうべきものがあり、その橋を渡った人にだけには、その呼びかけの声が聞こえる人にはいつでも煌めく純粋な宝石のように人々を魅惑する言葉の心が開かれていくのだ。

 そして、その輝きに見せられて、次にその橋を渡ろうとするものを永遠に誘ってやまないものがこの言葉のない世界なのだ。
なんまんだ。

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