我は魂を見るものなり。

 
 ブッダに思いをはせる。親鸞に祖師方、先祖方に思いをはせる。こちらから、時には向こうから夢の中や、ふとした時に写真や言葉や絵図が心に思いに浮かぶときがある。

 その時、私にブッダや親鸞の精神が生きていることを感じる。これをブッダや親鸞の精神と言う言葉ではなく昔は魂が来たと言った。私には感じられるのだ。

 見えてくるのだ。

 生きてくるのだ。

 お化けや幽霊と言うような漠然としたものではない。

 こんなにも判然とした魂とは純粋な精神になった仏であり、ブッダであり、親鸞なのだ。こんな具体的な出会いがあるだろうか。

 法蔵魂とはここの今の私を救い生かしている根本魂なのだ。

 ナンマンダブツはその魂の救済の具体的な姿なのだ。

 魂の明確な証拠とは正体とは、この私の身を通してのこれしか私には信じられないのだ。

なんまんだ

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