命の根っこ。

 人間の命は秒針のようだ。生まれた時から夜昼と休みなく動き回っている。

 短針は一日で長針は一年だとしても、いつかは必ず止まる時が来る。

 例えソーラーやリチウム電池で動いていても中の部品が消耗してしまう時が来る。

 そんな秒針短針長針時計だけど、みんな揃って毎日命の時を刻んで自分の時間を刻んでる。

 初めがあって終わりがあるこの命だけれど。

 だけど、ほんとは時計全体を動かしている内部の精密機械はアミダの命が永遠の時を同時に刻んでいるんだな。

 アミダと一緒に永遠の今の時を壊れてゆく時計と共におれらは刻んでいるんだな。

 運命を毎日共に刻んでいる一瞬一瞬が共に命の輝きなんだな尊いものだ愛するものだ、尊敬すべき我らが命になっているんだな。

 俺らの命はアミダの命の根っこでみんなの命につながっているんだな。

 たとえ止まる時が来ても、みんな同じ命を大事に生きてくれよと言う願いはどこまでも止まらない。

 なんまんだ。

夢を見る。

人は夜、様々な夢を見る。

夢の仕事は毎晩心の洗濯をしてくれているのかもしれないな。

楽しい夢や悲しい夢、懐かしい夢、怖い夢。

みんな私の心を前に進めるために、私の真実を知らせるために仏様が手洗いしてくれている毎日の心の洗濯なのかもしれないな。

洗濯してくれるたびに心の汚れが少しずつクリーンになっているのかもしれないな。

洗剤はなんまんだ。

洗い物はアミダ製の全自動洗濯機。

洗っても、洗っても炭のように次々真っ黒いものが溢れ出る。

それでも洗い続けている弥陀がある限り、みんな、いつか知らず知らずに、なんまんだ、なんまんだの洗濯音で、死ぬ間際まできれいに洗われ続けられていく夢を見続けていくのかもしれないな。

なんまんだ。
人は夜、様々な夢を見る。

夢の仕事は毎晩心の洗濯をしてくれているのかもしれないな。

楽しい夢や悲しい夢、懐かしい夢、怖い夢。

みんな私の心を前に進めるために、私の真実を知らせるために仏様が手洗いしてくれている毎日の心の洗濯なのかもしれないな。

洗濯してくれるたびに心の汚れが少しずつクリーンになっているのかもしれないな。

洗剤はなんまんだ。

洗い物はアミダ製の全自動洗濯機。

洗っても、洗っても炭のように次々真っ黒いものが溢れ出る。

それでも洗い続けている弥陀がある限り、みんな、いつか知らず知らずに、なんまんだ、なんまんだの洗濯音で、死ぬ間際まできれいに洗われ続けられていく夢を見続けていくのかもしれないな。

なんまんだ。

身。

 親鸞のいう、この身とは如来の力を借りて自己の限界に目覚めそれを乗り越えることが出来たこの身だな。

 仏から貰ったこの身だな。

 この醜悪な身こそが悟りや信心を受け入れることが出来る砂の器だな。

 仏の真の心に目覚め仏共に今生きている人がこの身と言えるのだ。

 仏の網目の一つになって生々流転している諸行無常の縁起の流れに任せて生きている我が身なのだ。

 それまでは俺の体、俺の心と思っているだけだ。

 この身とは仏に出会いその働きを受け入れることが出来たこの身だな。

 決まりきった宿業に任せることが出来た我が身だな。

 そのままこのまま救われた我が身のことを言うのだな。

 なんまんだ。

日々是念仏。

 信心や悟りの道を歩むことは誰でも何らかの宗教的な足跡を残してゆくということだ。
  坐禅や文章や絵や物作りでも同じ仏の道につながってゆくものだ。何も形でなくともという人は日常の言葉の中に仏心が宿っている表現を自然にできればいいだけだ。

 宗教の専門家でなくても社会の中で誰でも知らずそこに向かって集約されてゆくのだろう。

 それを仏道を歩むという事なのだろう。

 その道が終わった時が終わらぬ真実一如の仏の無為涅槃界と同体になる時が来たというのだろう。

 おおらかな自然の世界と一体になる時だ。

 悟りも信心も歩むものなのである。

 一時の停滞もないものだ。

 仏と二人でテクテク歩むものなのだ。

 浄土までその時、その人、その所がいつでも同行二人の平常是同行

 日々是念仏の日々是好日になってゆくとはこのことだ。

なんまんだ。

ありのままの意味。

 「何も付け加えない。何も減らさない」ありのままの自分で目的を叶える。

 そんな本来の自分自身の心の姿に帰ることが出来る、自然にありのままに与えられた永遠の世界に目覚めて生きてゆく姿が、ブッダの悟りだったのではなかったのか。

 付け加えるとは自我意識であるし、減らさないとは仏の心の宗教心、信心である。これがこの言葉の真実なのだろうと思うのです。これに目覚めてこそだと思うのです。

 それには自身が抜きがたく心の奥底に根付いている人間の無明の闇を取り除かなければこの話は始まらない。

 迷いの心が如来の本願力によって阿頼耶識なる真如のまごころを取り戻さなければ、このありのままは、私が変わらずもせず世界も変わって見えないままの単なる自我意識の延長に過ぎなくなるのだと思います。
 なんまんだ。

ありのままの自分で生きる意味。

 「何も付け加えない。何も減らさない」ありのままの自分で目的を叶える。

 そんな本来の自分自身の心の姿に帰ることが出来る、自然にありのままに与えられた永遠の世界に目覚めて生きてゆく姿が、ブッダの悟りだったのではなかったのか。

 付け加えるとは自我意識であるし、減らさないとは仏の心の宗教心、信心である。これがこの言葉の真実なのだろうと思うのです。これに目覚めてこそだと思うのです。

 それには自身が抜きがたく心の奥底に根付いている人間の無明の闇を取り除かなければこの話は始まらない。

 迷いの心が如来の本願力によって阿頼耶識なる真如のまごころを取り戻さなければ、このありのままは、私が変わらずもせず世界も変わって見えないままの単なる自我意識の延長に過ぎなくなるのだと思います。
 なんまんだ。

動物と人間の違い。

 人間は不可思議な兆載永劫に亘る無明と言う人間の根本的な事実を直視できない無明の闇の中に生まれてきた。

 現に働いている目に見えない真実のはたらきの道理を認識できないことが苦しみの原因であり、その結果の苦悩の罪悪を作り続けて来たのが我らである。

 すべての生あるものはそうかもしれないが、今は人間だけがそれを知っているという事にしている。

 このことを知ることは人間が自らの濁った眼でいくら知ろうとしてもみえないので、それを超えた真実を見ることが出来る眼によらなければ確認は永遠にできないのだ。

 その事実をどうしたら知ることが出来るかと言えば、すでに無明の闇を超えた諸仏としての信心を獲て眼が開いた人の教えを聞くしかないのであるが。

 諸行無常の自己である苦悩に悩むところが諸仏としての念仏者と言われる人に出会いを求めるきっかけでもある。

 それによって信心と言う人間の知性と理性を超え包む仏の智慧と慈悲の心に誰でも目覚めることが出来るようになっているのが人間の心の構造でもある。

 それによって無明の闇が智慧と言う光によって正しく事実を認識できるような智慧の光明に破られ、仏と言う理想の命の根源から生まれ、そこに帰ることが運命づけられていたわが身命であったと知ることが出来る真の人間に生まれ変わることが出来るようになるのである。

 これが人に生まれた根本の意味と意義と喜びである。

 このために人間はここに生まれてきたということが人生の意味となるのである。

 真実ともに生きることが出来るようになるのである。これを認識できるか否かが人間とほかの動植物との違いでもあるが、すでに彼らはこの世界に生まれた時から神様に愛されて生まれてきたようなものなので、そして、それを100%受け入れて生きているので、何らそのことにを悩むことはないと思うが、それだけが人間だけに課せられた最も重要な課題なのかもしれない。

 それだけに、理性や知性を超えた智慧に気が付かず、物事の正しい道理を知らない人間だけが動物以上に危険な存在となってしまうのだろう。

なんまんだ。

トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。

 映画「パ―フェクト・ディズ」。トイレは汚い、臭い、見たくない所。人間を昔から糞袋と言う人もいる。

 命を殺した証拠がおトイレだ。

 トイレと言えばきれいに聞こえるけれど。

 人間は命を殺し続ける殺し屋だ。

 死ぬまで続く生涯現役の悪名一代罪悪深重の凡夫だな。

 出してしまえばジャーと流して、汚い臭いとおさらばで、何も食ったり殺したりしておりません無罪放免と毎日毎回思って、はい、お終の繰り返し。

 自分が作った人間と同じ平等な命への罪を自覚する大事な場所になっているはずなのに。その場で一言、謝罪と感謝の言葉一つあってもいいのでは。

 念仏の篤信者であった山口県に生まれ80歳で亡くなった河村ふでさんはトイレから出る時かならず糞尿に合掌念仏していたそうだ。

 世の高学歴高収入のインテリと違う世界にいる宇宙人なのか。

 庭の草をむしるたびに「すまんのう・すまんのう」と言っていたそうだ。

 人間の恥部の根底には無明常夜の末那識があり、これが仏の教えを正しく聞くことを妨げていると唯識の本に書いていた。

 その底にある人間の真実の悟りの心が信心だけど、そこに光が当たるにはこの明るさを嫌う闇が晴れぬと届かないように心の構造はできているようだ。

 また「ないものを欲しがらんで、あるものを喜ぼうよな」と言う言葉もある。

 これはまるで平山がないものを欲しがって生きてきた今までの心の生活の全部のとどのつまりが、心から満足できるようなものではなく、その苦悩がまるで餓鬼地獄であると深い実存に目覚めたのだと思うのです。

 そこから今までの生活すべてを投げ捨ててでも「あるものを喜ばせてもらおうよのう」という宗教的な満足感を得た生活に変わっていった姿が、毎日のごく平凡だけれども一期一会の生活になっていったのだろうと思うのです。

 ふでさんはすでにご信心と言うアミダさんからもらった真の智慧と慈悲のまなこで自分と世の中が見えるようになった人です。

 その眼で我が身から出てくる糞尿は、この身今生、仏の教えに遇うまで死んでいってくれた数多くの命達の真心の形と拝むことが出来た人なんだろう。

 だから便所はトイレはそれらの仏様からもらった命達との最後の別れの現場になっていたのだな。

 神聖な場所になっていたんだな。

 みんなの命の悲しみや痛みを再確認するための懺悔の神殿にもなっていたに違いない。

 命を死ぬまで奪い続ける自己責任を取らねばならぬ。

 だから、そんな神聖な場所を平山は尊い場所として一生懸命に命に讃歌を捧げるために真剣に磨き上げていたに違いないのです。

 命の仏たちとの最後の出会たる感謝と懴悔の修練道場と平山は恐らく自然に思っていたに違いないのです。

 なんまんだ。

身も心も生まれ変わらなきゃあ意味がない。

 浄土に生まれるとは身と心が生まれることだ。心だけだと自覚したとか、気付いたとか、主体となるとか悟ったでは物足りない。

 赤子が母体の水中生活から肺呼吸の陸上生物になるように全身生まれ変わらなきゃ意味がない。

 宗教心を獲る様な儀式で、水の中に一時沈んでまた出てくる洗礼の儀式があるように、この世で本当に生まれ変わるとは本物の宗教心がわが身に生まれ、中から外まで全身全霊生まれ変わったようになることだ。

 もうそれでいいのだ、ここですでに罪悪深重の大悪人が大往生で充分だ。

 浄土に生まれ変わるのはたった一度この世の一度で十分だ。

 体ごと生まれるのだ、体ごと。

 そうだ、浄土に生まれるとは身と心が生まれなけりゃあ意味がない。

 しかも、今ここでこの身この心このまま極重悪人唯称仏でなきゃあ意味がない。

なんまんだ。
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