この世に成功も失敗もない。いかに歩んだかだけである。

 
 一つの目標に向かって努力すれば壁に何度もぶつかる。その失敗は一つの道がだめだと知った一つの成功でもある。
 そして、それを最終的に突破する道は二つある。一つはそのまま自滅するか、もうここでよいと諦めて別の道を歩むかである。

 自滅してもよいと覚悟を決めた時に何か向こうから現れるものかもしれないが。それはそれで、その努力意識を離れることができれば、それはそれでよしとするのだが。

 二つには、努力とともに仏の力を乞加する道かであろう。これらの一つは人間の自力意識で、一つは仏の他力意識といわれるものである。

 どちらが本当に人間に対して自由自在の世界を与えられるかは実際に道を歩んだものには自明のことだが、一人一人が具体的な努力する道を歩んでみないことにはどこまでも自明にできない世界でもある。
なんまんだ。

如来内存在。

 
 命あるものも命とみなされたものも、みな如来内存在になるんだな。

 あなたもあなたもあなたもわたしも、命あるものもないものも、みなこの無限     
 の命の中からいつからか生まれ、いつしか壊れ、いつしか帰り、いつしか命の 
 生まれをここまで繰り返して、いまここに生まれているんだな。

 いつしかやがて、無限の命の中から生まれ、そこへ帰ってゆく一瞬の輝きを与 
 えられた命達なんだな。

 一つの真実から来たアミダによって目覚めさせられ、気づかされ、今ここにこ
 うして様々な生活が与えられて永久の一つの命を分け与えられて生きている不
 思議。

 ここにきて、ここにいるわけも、きっといつか分かる時が来るにちがいない。
 きっと、その時に、あ~ぁそうだったのかと、言葉にならない言葉で深く頷く 
 時が来るのだろう。

 なんまんだ。

さくら咲く。

死ぬなんて考えないで、何とか生きていくことを考えよう。

生きていれば何とかなるからという。

今はつらくて逃げたくなっているかもしれないが、生きていれば、いつどんないいことがあるのかもわからない。

だけど、どうすれば生きていてどこに本当の意味があるのか、それがいつ見つかるのか。それがわかったら、いつ死んでも悔いがないといいうるものがあるのなら教えてほしい。

それがなければ、死んでもいいのだという道がなければ、死神の仕事がなくなってしまうではないか。

人は必ず死ぬ運命なのだから。

やはり最後の選択は他人が決めるのではなく自分で決めるしかないと思う。

死を生きるということを選択の一つにしておいたほうが、よっぽど人間らしい生き方になるのではないのか。

永遠に生きるのなら別だが。人生は長さだけじゃない。

深さもあれば桜のように美しく散るという一瞬の命の輝きだってあるのだから。

なんまんだ

自助努力。

 他人から助けられているうちは一時的に助かったとしても根本的に助けられたとは言わないのだろう。 
 たとえそれが神仏であってもだ。宮本武蔵は「仏神は尊し、神を頼まず」といった。本当に助かるとは自分自身で自分自身を助けるしかないのではないのか。

そうでないといつでも神仏や他人に依存する。本来の助かる意味とは自分と他人もともに助かる自利利他満足するものなのだろう。

自分も相手もそれによって助かるものである。それを確かめるためには最後は自身に問わねばならない。

神仏が真の自己自身であるならば自己内存在との合意が現生する。神仏も合意したことを真実の自己救済がなんまんだぶつの言葉となって証明されるのだと思います。
なんまんだ。

死は第二の人間のスタートだ。

 死ぬことは人生のゴールだという人は多い。
 家族との別離や苦悩からの脱却もあるから、だからこそこの人生を有意義に過    
 ごすべきだという。

 その意義を宗教に問えば、悲しみや別離や苦悩からの脱出だけではない。あな
 がちこの世からだけの視点だけでないことがある。

 宗教的に言えば、この世で生死の苦悩を超えれば、この人生には二重の生活が
 見えてくるようだ。

 一つはこの世で人生を完結する方法と目的を探すこと。もう一つは宗教的な信
 念に基づけば、自身のための真実の信念の確立がなされれば、それは自己から
 あふれ出す慈悲と智慧が永遠のものであることで、この世の終わりが、すなわ
 ち、人生の真実のスタートになってゆくということである。

 この光と命の真実が永遠の活動をするものならば、その世界を認識したのな  
 ら、その働きの中で生き続けることこそが、人間の人生の意義になるからであ
 る。

 だから肉体の死をもって、人間誰しもが、この世でその死を迎えても、その永
 遠の輝く命の中にすべての短い命が溶け込み限りない世界の渦に巻き込まれて
 ゆくのであるから、輝く命の願いに生きるものとなる以上、肉体の人生の死を 
 もって永遠の命の世界への、真実の意味での人生の再スタートになると思うか
 らなのです。

 今その道をみんなが意識しようが、しまいが、一人でもその道を一歩ずつ歩い
 ていくというところが人間として意義のあるところであろうと思うのです。

 なんまんだ

死は第二の人間のスタートだ。

 死ぬことは人生のゴールだという人は多い。
 家族との別離や苦悩からの脱却もあるから、だからこそこの人生を有意義に過    
 ごすべきだという。

 その意義を宗教に問えば、悲しみや別離や苦悩からの脱出だけではない。あな
 がちこの世からだけの視点だけでないことがある。

 宗教的に言えば、この世で生死の苦悩を超えれば、この人生には二重の生活が
 見えてくるようだ。

 一つはこの世で人生を完結する方法と目的を探すこと。もう一つは宗教的な信
 念に基づけば、自身のための真実の信念の確立がなされれば、それは自己から
 あふれ出す慈悲と智慧が永遠のものであることで、この世の終わりが、すなわ
 ち、人生の真実のスタートになってゆくということである。

 この光と命の真実が永遠の活動をするものならば、その世界を認識したのな  
 ら、その働きの中で生き続けることこそが、人間の人生の意義になるからであ
 る。

 だから肉体の死をもって、人間誰しもが、この世でその死を迎えても、その永
 遠の輝く命の中にすべての短い命が溶け込み限りない世界の渦に巻き込まれて
 ゆくのであるから、輝く命の願いに生きるものとなる以上、肉体の人生の死を 
 もって永遠の命の世界への、真実の意味での人生の再スタートになると思うか
 らなのです。

 今その道をみんなが意識しようが、しまいが、一人でもその道を一歩ずつ歩い
 ていくというところが人間として意義のあるところであろうと思うのです。

 なんまんだ

蒼天のキツネ

 足して足して足して、加えて加えて加えて、上に上に上に。

 風船や凧じゃあるまいし、いつか糸が切れて行方不明になって落ちてくる。

 それはそれで高いところからいいものを見たからいいかもしれないな。

 上も下も見たからいいのかもしれないな。

 みんながみんな世のため人のために尽くさなくたって、尽くせなくたって、ど 
 こかへ飛んで行方不明になったっていい世界があってもいいのかもしれないな

 ときには山女や山男となって、どこかでひっそりキツネのように、一人で広い 
 草原に寝転んで、どこまでも続く蒼天を見上げたまま死ぬのもいいかもしれな
 いな。

 なんまんだぶつなんまんだ

花と人と雲。

 釈迦は涅槃に入った。キリストは天に召された。
 親鸞はかの土(魂の故郷)に帰る。
 みんな生きているときに宗教を語るので死後
 のことは語っていないようだ。

 それなら、肉体の死後は完全なる無に帰るから
 生きているときの浄土であり、 

 天であり、涅槃ということになる。

 それぞれ呼び方が違うだけで、生きているときの
 浄土や天や涅槃も、宗教的に 
 はみな同じ精神世界のことを言っているのだと思う。

 生物学的には人間の体も心も昔と
 そんなに違いがないのなら
 西洋人も東洋人もアフリカ人も
 きっと行先は同じじゃないのかな。

 そして、人も植物も、昆虫も動物もみな同じ命なら、
 みな同じような感受性や 

 考えを持っていて行くところもみんな 
 同じところに行くのなら、同じ命とし 
 て平等で平和な世界を目指してみんなこの世を
 生きていることになるのになあ。
 
 なんまんだ

輝いている言葉。

 
 真心を込めて物を作る。
 誠心誠意を尽くして説得する。
 気持ちを込める。
 みんな目に見えない測れないものばかり。

 行動や形でしか知られないけれど、
 形と心が一つになって見えてくるときがある。

 その大事な、その人の真心も見え作る行為の
 形と心が一つになることは、人にはなかなかできないが、
 仏さまだけはその心と形が純粋に一つになった
 命の言葉の形を持っている。
 南無阿弥陀仏と心が純粋な輝く言葉という
 形になったものを持っている。

 それが私達の心に育つとき、その純粋無垢な
 一つの心と形の純粋形に導かれ、
 その行く先まで安心してついていけば、
 いい形と心がだれにでも与えられてくるに違いない。

 なんまんだぶつなんまんだ

なんじゃこりゃ。

 
時は残酷で優しいな。

時なんて最初からないものを。

人が美しさと、醜さで埋めてゆく。

 その時が来れば、その時が来ればと念じつつ、いつまでも、その時が来ることを待つ悲しさよ。

 その時が来た時は、いつも、その時は来ていたけれど、初めて来たかのように受け止める。

もうすでに、一度経験済みのことなのに。

 なんまんだぶつも初めて会った気がするけれど、ほんとはすでに会って知っていて、そこに生まれて、そこに帰る旅の途中の一里塚。

 なんまんだぶつ。なんまんだ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

 夜もすがら なむあみだぶつを称うれば むかし称えし我が名なりけり
                          詠み人知らず
NEW ENTRIES
矛盾な人間だ。(05.03)
ホカホカだよ、おっかさん。(05.02)
月が浮かぶ。(04.28)
私の誕生日。(04.27)
命の目覚め。(04.23)
死後まで守ってくれる人。(03.25)
石に聞く。(03.21)
動詞と助詞の使い方。(03.16)
一人称の死を超え生きる。(03.15)
悠久の真理の中で生きたいな。(03.12)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS