死後まで守ってくれる人。

 死んでも髭と爪は伸びてくる。
 
 私が、私がというわりにはその私より長生きだ。

 爪や髭はなんの用あってかご主人様を守るため。

 今更、何の用あって伸びるのか。私の厄介な僕(しもべ)ぐらいに思っていた が、意外と忠誠心が強かったのかもしれないな。

 私が死んだ後まで生き残って私を守ってくれる髭や爪かもしれないけれど、それはいまの私よりよっぽど偉いのかもしれないな。

 それを考えたら、あみだ様の本願念仏は私が生まれる前からあって、死んだ後も多くの命を救うのならば、きっと、私より偉い人の願いに違いない。

 それなら、いまからこっちのほうを私の命より大切にしておいたほうが、よりお得な人生を得られるかもしれないな。

なんまんだ。

石に聞く。

 龍安寺の石を見て俺はこう考える。こう見えるとすぐに私は何か言葉と答えを導き出したがる。

 考える暇もなくてすぐ自分という個性で感想を言いたがる。石の声を聴く暇もなく一方的に思いのままに語っていないことまで語りだす。

 石は石でお前はこう見える、こういうことが言いたいのだと語ってきているのにだ。

 だから黙って三年も石を見ていたら、石のほうから、もっとなんだかんだと語ってくるようになってくる。

 その声が私の耳に自然に聞こえてくるようになるまで待てないのだな。答えだけがすぐに欲しいのだな。

 私が知ったり語ったりする前に、私が生まれる前から泰然自若に私が知らぬ天然自然の真理の道理を体得し、多くのものに無言の言葉で多くを語っているのにな。

 なんまんだぶつも同じこと。名号を見ていたら向こうから多くのことを語っていることが、無言の声で語って来ていることが自然に聞こえてくるのに、すぐに答えが欲しいから解説書を読むのだな。それでわかった気になっているのだな。

 なんまんだぶつに間と言う物はいらぬもの。なんまんだぶつ即往生大涅槃の悟りの分がこの世で与えられる仕組みになっていることを今の人間も昔も未来の人も自意識過剰に育ったせいか、こんな自然で当たり前の既得の精神作用すら忘れられた世界がここまで営々と続いてきたんだな。

なんまんだ

動詞と助詞の使い方。

これから救われるだろう。すでに救われたからあとはどうでもいい。救われたが死ぬまでは救われていく深さがある。すでに救われつつあるが、まだ救われていない。これらは金魚掬いの話ではない。人間が真実の働きに今どうなっているのが正しく救われているのかという話だ。同じように見えてくる世界観だが助動詞一つでまったく違ってくる。生きているときは救われていく、如来はつねに救い続ける動作をやめないのだから、我らも救われ続けながら救われていくという継続的な動詞が最も正解に近い表現なのだろう。

一人称の死を超え生きる。

 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは三人称の死。二人称の死。一人称の死があるという。赤の他人と知り合いと自分だ。

 一人称の死だけは死後の認識ができないという。肉体の死後の自覚はないというが、生と死を一つ一つの命の塊と考えないで、仏教でいう縁生存在の寄り集まっては離れていくものとしてとらえれば、最初から実体的な生死はないものであり、その都度その都度に生々流転した肉体として生存しているし、精神でさえも同様に働いていくものなのだろう。

 そして、その中で細胞レベルで生と死を交互に繰り返しながら今を生きているということが今知ることができる生というものになるらしい。そこに自我意識があるから、その分別する心で生きているとか死んでいると分けるのだろう。

 私たちの体も川の流れのごとくに毎日が同じように見えても日々刻々様々なもので体は成り立っては消えている。そこでは、実体的な体や心はどこにも存在しないことになる。そんな中で、自我意識が一時停止して宗教意識が興りその働きを深く自覚する時がある。

 自我意識がいったん終われば即ち自然の浄土が自我意識の底に再認識される、つまり意識滋養に生まれるといっている。そこでは自我意識が一時的に仮死自様態になり、宗教心という全的意識が全身を凌駕する時があるというのだ。それを親鸞は「前念命終後念即生」といいい、そこに浄土意識なるものが別世界として現在するようになるというのだ。そこには自我意識が意識する生も死もなくて、ただ単に今ここにある自分が、絶対なる仏や神の御前に正座していることが心地よくて懺悔の命を尊ぶ世界が意識上に常に現れるようになるのだ。

 そうなれば、そこには永遠無限の世界意識だけが我と仏の会う共感意識として意識されるだけの絶対無限の満足世界に包まれるようになる。

 ここまでくれば、こんな世界が与えられたら、誰でも一人称の生死を超えた世界が体験できることになるのではなかろうか。
 これが一人称の死を自覚することであり、仏教でいう生死の迷いを超える道であり、生や死を諦める道元禅師や親鸞の念仏の悟りの道にも通ずる実存の自覚を得歌ということになるのではないのかと思うのです。

なんまんだ

悠久の真理の中で生きたいな。

 どんなテレビ番組でもラジオやyoutubeでもいつかは終わる。私の人生もいつかは終わりを迎える時が来る。

 海も山も川も森も大地も変化して変化してやがて自然の力で地球さえも別の形になってゆく。滅んで、みんなさようなら。

 そんな終わりの前に終わりのない世界が人生や物語があればいいと思っても、いつかはみんなさようなら。

 だからみんな終わりのないと思っている死後の世界や天国を思うけど、空間を占めない存在でもない限り、初めも終わりもない世界があればこそ、そこが本当の人間の、命の願い望む世界かもしれないな。

 そんな、一見無限の可能性のあるゼロの世界に今、もし、みんな命のあるなしにかかわらず、みんな包まれているとしたならば、そんな今の世界を知ったなら、結構みんな、もっとゆっくり、のんびり、お先にどうぞのおもてなしの精神で、今をもっと尊重して生きてゆくことができるようになるのかもしれないな。

 はじめも終わりもない悠久の大地の上で新しい人間の物語が一人一人に今から始まるのかもしれないな。

なんまんだ

この世に成功も失敗もない。いかに歩んだかだけである。

 
 一つの目標に向かって努力すれば壁に何度もぶつかる。その失敗は一つの道がだめだと知った一つの成功でもある。
 そして、それを最終的に突破する道は二つある。一つはそのまま自滅するか、もうここでよいと諦めて別の道を歩むかである。

 自滅してもよいと覚悟を決めた時に何か向こうから現れるものかもしれないが。それはそれで、その努力意識を離れることができれば、それはそれでよしとするのだが。

 二つには、努力とともに仏の力を乞加する道かであろう。これらの一つは人間の自力意識で、一つは仏の他力意識といわれるものである。

 どちらが本当に人間に対して自由自在の世界を与えられるかは実際に道を歩んだものには自明のことだが、一人一人が具体的な努力する道を歩んでみないことにはどこまでも自明にできない世界でもある。
なんまんだ。

如来内存在。

 
 命あるものも命とみなされたものも、みな如来内存在になるんだな。

 あなたもあなたもあなたもわたしも、命あるものもないものも、みなこの無限     
 の命の中からいつからか生まれ、いつしか壊れ、いつしか帰り、いつしか命の 
 生まれをここまで繰り返して、いまここに生まれているんだな。

 いつしかやがて、無限の命の中から生まれ、そこへ帰ってゆく一瞬の輝きを与 
 えられた命達なんだな。

 一つの真実から来たアミダによって目覚めさせられ、気づかされ、今ここにこ
 うして様々な生活が与えられて永久の一つの命を分け与えられて生きている不
 思議。

 ここにきて、ここにいるわけも、きっといつか分かる時が来るにちがいない。
 きっと、その時に、あ~ぁそうだったのかと、言葉にならない言葉で深く頷く 
 時が来るのだろう。

 なんまんだ。

さくら咲く。

死ぬなんて考えないで、何とか生きていくことを考えよう。

生きていれば何とかなるからという。

今はつらくて逃げたくなっているかもしれないが、生きていれば、いつどんないいことがあるのかもわからない。

だけど、どうすれば生きていてどこに本当の意味があるのか、それがいつ見つかるのか。それがわかったら、いつ死んでも悔いがないといいうるものがあるのなら教えてほしい。

それがなければ、死んでもいいのだという道がなければ、死神の仕事がなくなってしまうではないか。

人は必ず死ぬ運命なのだから。

やはり最後の選択は他人が決めるのではなく自分で決めるしかないと思う。

死を生きるということを選択の一つにしておいたほうが、よっぽど人間らしい生き方になるのではないのか。

永遠に生きるのなら別だが。人生は長さだけじゃない。

深さもあれば桜のように美しく散るという一瞬の命の輝きだってあるのだから。

なんまんだ

自助努力。

 他人から助けられているうちは一時的に助かったとしても根本的に助けられたとは言わないのだろう。 
 たとえそれが神仏であってもだ。宮本武蔵は「仏神は尊し、神を頼まず」といった。本当に助かるとは自分自身で自分自身を助けるしかないのではないのか。

そうでないといつでも神仏や他人に依存する。本来の助かる意味とは自分と他人もともに助かる自利利他満足するものなのだろう。

自分も相手もそれによって助かるものである。それを確かめるためには最後は自身に問わねばならない。

神仏が真の自己自身であるならば自己内存在との合意が現生する。神仏も合意したことを真実の自己救済がなんまんだぶつの言葉となって証明されるのだと思います。
なんまんだ。

死は第二の人間のスタートだ。

 死ぬことは人生のゴールだという人は多い。
 家族との別離や苦悩からの脱却もあるから、だからこそこの人生を有意義に過    
 ごすべきだという。

 その意義を宗教に問えば、悲しみや別離や苦悩からの脱出だけではない。あな
 がちこの世からだけの視点だけでないことがある。

 宗教的に言えば、この世で生死の苦悩を超えれば、この人生には二重の生活が
 見えてくるようだ。

 一つはこの世で人生を完結する方法と目的を探すこと。もう一つは宗教的な信
 念に基づけば、自身のための真実の信念の確立がなされれば、それは自己から
 あふれ出す慈悲と智慧が永遠のものであることで、この世の終わりが、すなわ
 ち、人生の真実のスタートになってゆくということである。

 この光と命の真実が永遠の活動をするものならば、その世界を認識したのな  
 ら、その働きの中で生き続けることこそが、人間の人生の意義になるからであ
 る。

 だから肉体の死をもって、人間誰しもが、この世でその死を迎えても、その永
 遠の輝く命の中にすべての短い命が溶け込み限りない世界の渦に巻き込まれて
 ゆくのであるから、輝く命の願いに生きるものとなる以上、肉体の人生の死を 
 もって永遠の命の世界への、真実の意味での人生の再スタートになると思うか
 らなのです。

 今その道をみんなが意識しようが、しまいが、一人でもその道を一歩ずつ歩い
 ていくというところが人間として意義のあるところであろうと思うのです。

 なんまんだ
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死後まで守ってくれる人。(03.25)
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