無用の用

仏教では物事を体相用で見てゆく。体は本質。相は性質。用は働き。
茶碗の空間は無用の用。宗教心はどうか。生きて行くうえで一見無用である。目に見えないはたらきだからどこにも誰にも存在しないように思える。今それを仏の慈悲と智慧の働きとする。これまた目には見えない用きだ。しかし、それを言葉で理解することは出来る。できると言ってもそれを体現してからだが。その言葉はブッダや宗教家と言う人たちによって多く喧伝されている。それは一体何の役に立つのか。
 簡単に言えば、一切の苦悩の根本を洞察し、正しく心の姿を認識させ人間の受体性を目覚めしめる用きをするのである。
 すなわち我々の時間と空間を超越していながら、そこから常に我々を超え包み、超越している世界に恒に目覚めしめ導く用きをしているのであるから、見えない存在ではあるが、人間の心の機能の根本を主っている一番重要な用きでもあるのである。
 だから無用の用とは、この世での人間の自我意識の目的と方向が正反対の用きをするから、この世の価値観からすれば一見無駄な用きのように見えて一番人間性の根本に位置するものである。むしろ普段は見えない方がその価値が増すというべきものかもしれない。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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